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家康開運の城「高天神」
から汲み上げた
南アルプスの伏流水

開運の仕込み水は高天神山麓から汲み上げた南アルプスの伏流水です。土井酒造場の創業当時、小貫の里では酒造りに適した水源が見つからなかったため、高天神の水源地から水を採取しお酒の仕込み水としました。今も酒造りが始まると、3キロほど離れた高天神の取水施設から、毎日水を蔵に運び入れています。

歴史好きの方なら掛川の高天神と聞けば、すぐに「高天神城の戦い」と思い浮かぶと思います。高天神城が築かれた山は標高130メートルほど小さな山体ですが、急峻な斜面と幾重もの曲輪に守られた非常に堅固な山城でした。徳川家康にとって遠州支配の重要な拠点であり、武田信玄が二万五千の軍勢で攻めても、落城させることが出来なかった手強い城として知られています。

信玄亡き後、武田家を継いだ勝頼は、二万の軍勢で高天神城を取り囲み籠城戦を仕掛けます。家康は織田信長に援軍を依頼しますが、信長は一向一揆衆との戦いで余裕がなく、遠州まで大軍を送ることが出来ません。織田からの援軍が来ないと知った城方は、籠城による抗戦をあきらめ勝頼に降伏します。名将信玄が落とすことが出来なかった高天神城を、息子の勝頼が落としたということで、その武名は一気に高まります。

武田家の城となった高天神城ですが、長篠の戦いにおける大敗や御館の乱、相模の北条家との同盟破綻などで勝頼の力が衰えると、家康は即座に高天神城を圧迫し責め立てます。甲府には高天神城からの援軍要請が頻々と届きますが、織田方との和睦の道を探る勝頼は、高天神へと援軍を送ることが出来ません。天正9年3月、援軍が来ないことを覚った城兵は、城門を開き全軍で突撃、突破を試みますがあえなく全滅してしまいます。

援軍要請があったのにもかかわらず、高天神に兵を送らなかった勝頼は、配下の武将たちの信頼を急速に失います。このことがきっかけとなり、武田方から織田・徳川方への大量寝返りが誘発されます。高天神落城からわずか1年後の天正10年3月、天目山の戦で甲斐武田氏はあっけなく、本当にあっけなく滅んでしまいます。

高天神城をめぐる攻防は、ドラマなどのメディア作品に登場することも少ないため、全国的な知名度はそれほど高くありません。しかし徳川家康にとっては、常に圧迫を受けていた武田の弱体化を決定づける契機となりました。甲斐の武田家を滅亡させることで、三河・遠州・駿河の三国領有を確固たるものとし、大大名として飛躍するターニングポイントとなりました。高天神城は徳川家康にとって飛躍の城、開運の城と言って差し支えないのではないでしょうか。

高天神という「開運の城」から汲み上げた水で仕込む土井酒造場の「開運」。戦国の歴史風景に思いをはせながら地の酒「開運」を酌む。地酒を楽しむ一興となれば幸いです。

高天神遠景

高天神遠景。写真左手に追手門があり、幾つもの曲輪を連結させて山全体を要塞化していた。

高天神参道

本丸直下に位置する搦手門へとつづく参道。高天神の山中には高天神社が祀られている。

高天神城の搦手

高天神城の搦手となる場所。この奥に井戸曲輪へとつづく急坂に作られた階段が現れる。

鶴翁山全体を要塞化

鶴翁山全体を要塞化。精巧な「城郭復元ジオラマ遠州高天神城」も発売され話題になった。